エンジョイ日本史10  平治の乱④

清盛は賢いです

こうして歴史の舞台での

駆け引きを調べるにつれて

どれだけ巧みに

清盛がこの絶対的なピンチを

逆転に導いたのか

見ていきましょう。


京に戻った清盛

決戦を覚悟していた義朝は

拍子抜けします

名簿を差し出し

服従の意を示した清盛

しかし

それは服従したフリでした。


天皇とその息子が幽閉されている御所が

火事になりました


火事の騒動にまぎれて

天皇を清盛は救出します。

そして時をおかず

一人の女性が御所から運び出されます


実はその女性は女装した天皇の息子でした。


清盛は服従したわけではなく

天皇とその息子を

救出し

その後

義朝との決戦を計画していたのでした。

関東に本拠を置く源氏は多くの
兵力は都ではもっていませんでした

大群を率いて都に来ることは
許されていなかったようで

なぜなら、そんなことをすれば
侵略の意図あり、と見なされてしまいます。

なので兵力自体は義朝は数百しかありませんでした。


天皇を奪われた今

義朝は一気に窮地に立たされました。

御所に攻め入る清盛軍

数は3000人

約10倍の兵力に勇猛果敢に立ち向かいます。


ちなみに、この戦が後に

鎌倉幕府を立ち上げる、源の頼朝の初陣となりました。


義朝軍の決死の交戦により

清盛軍は劣勢となります。

10倍の兵力にも怯まず

勇猛果敢に戦う義朝


政治的な手腕はいまひとつだったとしても

男として

義朝とゆう人物は非常に魅力的な部分があると思います。

とても強い男だったのだと思います。

勇猛果敢とは惹かれるものがありますね。

 

しかしここでも清盛はある意図をもって

兵を少しずつ引かせたのでした

それは

御所で戦が本格化すれば

天皇の住まいである御所がこわれてしまう

燃やされてしまうかもしれない

なので、徐々に兵を引かせて

自分の住まいの六波羅近くで

決戦を仕掛ける計画でした


頭がいいですね

何をしても義朝の上をいってしまう清盛


引き下がる清盛を追いかける義朝

それが策略だとも知らずに。。

追いかけたその先に待ち受ける大軍三千と

六波羅で決戦


10倍の数的優位はいかんともしがたく

義朝はその子頼朝、あと兵数機を連れてやむなく

敗走します。


頼朝は当時14才の少年で

父の敗走を目の当たりにします

そして頼朝の異母兄弟である義経はまだ産まれたばかり

東国に戻り体制を立て直しをはかる義朝でしたが

その関東への帰路の途中

尾張の国(現在の愛知県)で

部下の裏切りにあい殺害されます。

息子の頼朝とは

尾張に来る前にはぐれてしまい

それが結局、源氏再興への望みとなります。


これで平治の乱自体はおわりで

結果、信西はいない

天皇も清盛が頼り、源氏も倒した

事実上、清盛 平家の一人勝ち状態になりました

後程「平家にあらずんば人にあらず」 の言葉

に表されるような

この世の春を清盛、平家は味わうことになります。

平家は繁栄の極みを体験します。

この世の全ては自分たちの為にある

そのような状態です。

 

このとき誰が想像できたでしょうか

平治の乱で敗れた義朝の息子2人が

やがて時代を変えることを・・・

 

エンジョイ日本史9   平治の乱③

義朝のクーデターが成功したかに見えた矢先。


京では暗闇の中で

静かに清盛の帰りを待つ人たちがいました

 

 

それは

義朝にクーデターの話を持ちかけた貴族達です

 

彼らにとって政敵である藤原信西が打ち取られた今

粗暴な義朝は

むしろ彼らにとって邪魔者になっていました。

 


復讐心を晴らし、満足した義朝

さらには天皇

こちらのコントロール下にある

清盛が京に戻ってくる

だけど大丈夫、と義朝は思っていました。


こちらは官軍、清盛は賊軍

こちらが有利である

 

されど
清盛が京に戻ってくる

直接対決の日が近づいている

と思われました

 

しかし、京に戻った清盛は

義朝と戦おうとしません

それどころか

平家一問の名簿
(めいぼ、ではなく当時の読み方は「みょうぶ」と読みます)

を義朝の上司である貴族、藤原信頼に差し出します。

 

 

当時

名簿を差し出すことが

どんな意味があるかというと

名簿を差し出す、イコール、服従します。

とゆうことでした

あなたの軍門に下ります。

とゆう意を清盛は示しました。


信西なき後

貴族のトップ藤原信頼に従うのが

道理であるとして

清盛が服従の意を示したことで

乱は終結したかに見えました。

 

エンジョイ日本史8  平治の乱②

熊野詣に出かけた清盛

この世の平和と平家のより一層の繁栄を

祈っていたその矢先

都から使者が送られて来ました

 

知らせの内容はなんと

義朝の都でのクーデターの知らせで

後白河院とその息子がさらわれて

幽閉され

形上、義朝は院を味方につけた

「官軍」となりました


当時は天皇家を味方ににつけること

天皇家の支持を得ること

取り込むことで

自分たちが正義

つまり「官軍」となることが

単なる軍事力以上に権威のある時代でもあり

義朝は強引にそれを実行しました。

 

そして

ここが義朝の詰の甘いところで

天皇を自分たちにつけたことで

気が緩んでいたことが見受けられます。


義朝の家臣は

清盛が熊野から戻る前に迎え撃ち

ましょうと進言しましたが

義朝はその進言を退けます。

天皇をこちらにとっているので

もう自分たちの勝ちだと思い

気が緩んでいたのです。

 

さらには

3年前の保元の乱後、戦後処理の沙汰を上手くやることで

台頭した権力者

藤原信西(ふじわらのしんぜい)を今回のクーデターで
討ち取ったことで

義朝の復讐心は実際はかなり

晴らされたのかもしれません


この藤原信西さんは

天皇家と婚姻関係を重ねることで

政治の要職に就き続けてきた一族の

藤原一族の中で

名門、本流ではない家系の人でしたが

個人の器量、能力でのし上がってきた人です。

武士勢力ではとことん平家を優遇して

源氏の方は冷遇してきました


かつて
義朝が権力を得る為に

信西に近づこうと、自分の子供と

信西の子供の婚姻関係を結ぼうとしましたが

信西はこれを拒否します

しかしその数ヵ月後、清盛の子供と信西の子供が

婚姻関係を結びます。


また、保元の乱の戦後処理での恩賞の沙汰は

信西による采配が大きく影響しており

冷遇された義朝は信西に大きな恨みをもっていました。


また、義朝に父の為義の斬首を直接申し渡したのも

信西だったといわれています。

 

義朝はその信西を打ち取り

天皇をさらい幽閉し自分のコントロール下に置きました。


クーデターは成功したかに見えました。

 

 

エンジョイ日本史7    平治の乱①

天下分け目の

保元の乱から3年後の1159年

清盛42才

義朝37才


保元の乱で勝利した後白河天皇は33才


人生50年の時代なので

みんないい年ですね


このとき
平治の乱が勃発します。

事の成り行きは

3年前の保元の乱の活躍にもかかわらず

冷遇されていた義朝と

現体制に不満をもつ貴族達が

結託してクーデターを起こしました。


貴族にとっては

義朝は自分たちの手を汚さずにいざとなったら

切り捨てられる都合のいい手駒のような

認識だったと思います。


当時 清盛の繁栄ぶりは凄まじく

武士としては異例の出世と経済的な成功を

収めていました。

軍事力に関しても

最大勢力でした。

この清盛さん、もともと神仏、怨霊の類は

あまり信じない方のようですが


平家ゆかりの熊野に

いちどお参りに行ったらよいと言われ

現在の和歌山県に出かけることになりました。


清盛が京都を離れる!


虎視眈々と影からそれを見ている男がいました。

反乱を起こすチャンスを伺っていた

義朝です。

 

エンジョイ日本史6  保元の乱③

軍議の席で

貴族から作戦を求められた清盛と義朝


義朝は清盛に先んじて発言します


「相手を屈服させる最善の手段は、夜討ちにございます」


そう進言します。

それに対し貴族の返答は釈然としません

天皇家家督争いに「夜討ち」などとゆう

卑怯な手段はふさわしくない

とゆうわけです

そんな体面や体裁ばかりを気にする貴族から

有効な他の策が出るはずもなく

結局は義朝の夜討ちの策は実行されることとなります

 


当時の常識で、天皇家の家に

夜討ち、火攻め、などの行為はありえないことでしたが

義朝の育った関東武士の世界では
普通のことでした

保元の乱は義朝の活躍で
後白河天皇方の勝利となりました


勝利した後白河天皇方の貴族はつぎつぎと
政治の要職に就任していきます

彼ら貴族は、戦をするわけでもなく
事のなり行きを見ているだけだったわけですが

 

そして

平清盛も現在の兵庫県、当時の名前は播磨の国
を統治する播磨の上
となります。

播磨は豊かな国でした。

 


対する乱の最大の功労者であるはずの義朝が与えられた官位は
左馬の上(さまのかみ)

これは朝廷の馬を管理する役職で


乱後、義朝が与えられた官位、恩賞は他の人達に比べ
非常にわずかなものでした

そして、義朝、清盛もですが
勝利した後白河側の武士は
負けた崇徳側についていた武士達の処刑を命じられます

 

義朝は自分の父親の命を奪うことになりました

義朝は父の助命を願いででいたのですが
それは認められませんでした

 

一方の貴族側では
負けた側は、命まで奪われる処刑などとゆうことは行われていません


乱後、一応、天上人(朝廷内の人間)
の末席あたりになんとか入り込めたものの
親殺しの汚名と
戦の活躍からすれば
ほんとにわずかな見返りしか得られなかった義朝。


義朝は
どんなにがんばっても貴族社会では
優遇されない
とゆう現実に直面しました

 

がんばっても美味しいところは
ほぼ全部貴族が持って行ってしまう

 

また、今の自分では
政治的な駆け引きでは
貴族には遠く及ばない

そうゆう無念の思いでいっぱいだった
ことでしょう


しかしそんな中でも義朝は

結局この乱の決着をつけたのは

自分の「武力」であること

に手応えを感じていました。


その思いが数年後

また新たな展開へとつながります。

エンジョイ日本史5  保元の乱②

天下分け目の保元の乱続きです。

有名な平清盛率いる平家

鎌倉幕府の創設者の源頼朝、その弟、義経父親である 
源義朝の源氏

当時、清盛は39才

義朝は34才

大河ドラマなどでライバルのように
描かれることが多い二人ですが

この時点で

清盛の方がはるかに官位が上
武士としては異例の出世をした人物でした

貿易で得た財があり
軍事力、財力、ともに義朝の遥か上をいっていました。


そして実際は
このときまでは面識もなかったと思います。

大河ドラマなどでは
ライバルとしていた方が
話が面白いからそうしているのだと思います。

 

2人は後白河天皇方につきました

この保元の乱、後の源平合戦のような
源氏 対 平家の戦いではなく

崇徳側と後白河側にそれぞれに源氏も平家も

入り乱れています

清盛と義朝は自分の身内相手に

戦をすることになりました


察するに

当時の武士は位がとても低かったのです。

なにも身内で別れて争わなくても。。

と思いましたが

また身内でも考えの違い
好き嫌いがあるのは

今の世でも同じですね。


そうゆうのとはまた別に

当時の武士は貴族の使用人とゆう立場で

もっと言えば、門番の役割の番犬がわり

荷物を引く牛車がわり


貴族にとっては

自分たちに意見することなど

ありえない、あってはならない

そして、自分たちの命令には

従って当然だと

そのような価値観、感覚だったそうです。

 

なので乱の勃発のとき

貴族からの招集に対して

武士側は、どちらの勢力に味方するか、ほとんど

選択権はなかったのではないかと思われます。

 

身内が入り乱れて

戦うことになった背景にはそういったことがあった

と思います。

 

源氏の義朝はとにかく自分達、源氏の

地位を上げたい

ずっと思っていました

なのでこれをチャンスとみて

この乱にて手柄を上げようと思っていました。

 

 

 

エンジョイ日本史4  保元の乱①

今回は少々趣向を変えて

平安時代にあった事件

保元の乱についてです。

 

保元元年に起きたので保元の乱といいます。

長いので数回に分けてお伝えします。

 

学生時代に教科書にのっていた
人物や事件に関しては
当然ですが知名度高いですね

名前ぐらいは知っているとか

歴史好きなら
詳しく知っていたりします

自分も大人になって再度歴史を調べるまで
保元の乱
の名前は知っていたけれど

それがどんな事件だったのかは
すっかり忘れていました

学生時代の授業で教わった記憶は
ありましたが

 

この保元の乱平治の乱とセットで
語られることが多いのですが

平治の乱保元の乱の3年後に勃発します。

両方とも

いわゆる権力争いです

言葉を変えれば

権力の座を狙う対抗勢力が
クーデターを起こし

その後国の勢力図が大きく変わりました。

今回は保元の乱についてお伝えします。

 

平治の乱については
また次の機会にお伝えします。


保元の乱は1156年8月5日

天皇家の兄弟である

崇徳上皇と弟の後白河天皇の権力争いですが

それに貴族や武士が巻き込まれ

当時の天下分け目の内戦となりました。


上皇天皇とありますが

上皇とは、天皇を引退した人の呼び方です

さらに上皇が出家をすると法皇となります。

二人の父親である

鳥羽法皇が存命のうちは良かったのですが

この絶対権力者たる鳥羽法皇

鳥羽法皇が亡くなったことにより
事は起こりました。

崇徳上皇と弟の後白河天皇の対立の

構図が出来上がりました。

 


双方乱の解決の為に

武士の軍事力を持ち込みました。