エンジョイ日本史6  保元の乱③

軍議の席で

貴族から作戦を求められた清盛と義朝


義朝は清盛に先んじて発言します


「相手を屈服させる最善の手段は、夜討ちにございます」


そう進言します。

それに対し貴族の返答は釈然としません

天皇家家督争いに「夜討ち」などとゆう

卑怯な手段はふさわしくない

とゆうわけです

そんな体面や体裁ばかりを気にする貴族から

有効な他の策が出るはずもなく

結局は義朝の夜討ちの策は実行されることとなります

 


当時の常識で、天皇家の家に

夜討ち、火攻め、などの行為はありえないことでしたが

義朝の育った関東武士の世界では
普通のことでした

保元の乱は義朝の活躍で
後白河天皇方の勝利となりました


勝利した後白河天皇方の貴族はつぎつぎと
政治の要職に就任していきます

彼ら貴族は、戦をするわけでもなく
事のなり行きを見ているだけだったわけですが

 

そして

平清盛も現在の兵庫県、当時の名前は播磨の国
を統治する播磨の上
となります。

播磨は豊かな国でした。

 


対する乱の最大の功労者であるはずの義朝が与えられた官位は
左馬の上(さまのかみ)

これは朝廷の馬を管理する役職で


乱後、義朝が与えられた官位、恩賞は他の人達に比べ
非常にわずかなものでした

そして、義朝、清盛もですが
勝利した後白河側の武士は
負けた崇徳側についていた武士達の処刑を命じられます

 

義朝は自分の父親の命を奪うことになりました

義朝は父の助命を願いででいたのですが
それは認められませんでした

 

一方の貴族側では
負けた側は、命まで奪われる処刑などとゆうことは行われていません


乱後、一応、天上人(朝廷内の人間)
の末席あたりになんとか入り込めたものの
親殺しの汚名と
戦の活躍からすれば
ほんとにわずかな見返りしか得られなかった義朝。


義朝は
どんなにがんばっても貴族社会では
優遇されない
とゆう現実に直面しました

 

がんばっても美味しいところは
ほぼ全部貴族が持って行ってしまう

 

また、今の自分では
政治的な駆け引きでは
貴族には遠く及ばない

そうゆう無念の思いでいっぱいだった
ことでしょう


しかしそんな中でも義朝は

結局この乱の決着をつけたのは

自分の「武力」であること

に手応えを感じていました。


その思いが数年後

また新たな展開へとつながります。