エンジョイ日本史8  平治の乱②

熊野詣に出かけた清盛

この世の平和と平家のより一層の繁栄を

祈っていたその矢先

都から使者が送られて来ました

 

知らせの内容はなんと

義朝の都でのクーデターの知らせで

後白河院とその息子がさらわれて

幽閉され

形上、義朝は院を味方につけた

「官軍」となりました


当時は天皇家を味方ににつけること

天皇家の支持を得ること

取り込むことで

自分たちが正義

つまり「官軍」となることが

単なる軍事力以上に権威のある時代でもあり

義朝は強引にそれを実行しました。

 

そして

ここが義朝の詰の甘いところで

天皇を自分たちにつけたことで

気が緩んでいたことが見受けられます。


義朝の家臣は

清盛が熊野から戻る前に迎え撃ち

ましょうと進言しましたが

義朝はその進言を退けます。

天皇をこちらにとっているので

もう自分たちの勝ちだと思い

気が緩んでいたのです。

 

さらには

3年前の保元の乱後、戦後処理の沙汰を上手くやることで

台頭した権力者

藤原信西(ふじわらのしんぜい)を今回のクーデターで
討ち取ったことで

義朝の復讐心は実際はかなり

晴らされたのかもしれません


この藤原信西さんは

天皇家と婚姻関係を重ねることで

政治の要職に就き続けてきた一族の

藤原一族の中で

名門、本流ではない家系の人でしたが

個人の器量、能力でのし上がってきた人です。

武士勢力ではとことん平家を優遇して

源氏の方は冷遇してきました


かつて
義朝が権力を得る為に

信西に近づこうと、自分の子供と

信西の子供の婚姻関係を結ぼうとしましたが

信西はこれを拒否します

しかしその数ヵ月後、清盛の子供と信西の子供が

婚姻関係を結びます。


また、保元の乱の戦後処理での恩賞の沙汰は

信西による采配が大きく影響しており

冷遇された義朝は信西に大きな恨みをもっていました。


また、義朝に父の為義の斬首を直接申し渡したのも

信西だったといわれています。

 

義朝はその信西を打ち取り

天皇をさらい幽閉し自分のコントロール下に置きました。


クーデターは成功したかに見えました。